豊中市立原田城跡・旧羽室家住宅 史跡&土塁説明版/豊中市曽根西町

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豊中市立原田城跡・旧羽室家住宅 史跡&土塁説明版

ここも・・・もう1年以上前になると思います。

基本的に最近、こういう所に行ってないので基本去年とかのものになります。

第四十一合 昭和六十二年九月1日 記念物(史跡) 原田城跡

記念物(史跡) 原田城跡
原田城の作られた年代は明らかではありませんが、室町時代末期に架かれた「足利季世記」によれば、天文十年(一五四一)十一月に管領細川春元の家臣木沢長政が原田城を攻めた殿記述がみられ、少なくとも十六世紀初めころには築かれていたものと考えられています。
原田城には、主城ほ北城と砦の南城の2城があり、この場所は北城が築かれていたところで、当時は東西九〇間(約一六〇m)、南西一八〇間(約三二〇m)の規模を有し、現在は残っていませんが堀もあったといわれています。また南城はここから南東三〇〇mのところにあったといわれています。
当時は、群雄割拠の戦国の世で各地で合戦が行われ、この原田城も多く史実のなかにその名がみられます。
天文一六年(一五四七)には城主は不明(「摂津史」によれば三好日向守)ですが、細川晴元勢三万騎の攻撃によって陥落してしまいます。また、天正六年(一五七八)には織田信長による伊丹有岡城にたてこもる荒木村重討伐のさい、この原田城は信長軍の付城として信長配下の武士が在藩していました。
豊中市教育委員会

原田城あと1710 (5)

土日だけでしたけ?開いてるの

無料で見れますが・・・建物内は撮影厳禁です。

イベントなども開催されています。

豊中市指定史跡
原田城跡と土塁
原田城は、豊中南部の土豪(国人)原田氏の居館として十三世紀末ごろに成立したと指定され、戦国時代の資料にたびたび登場します。 天正六年(一五七八年)、織田信長の謀反を起こした家臣荒木村重を伊丹有岡城に攻め落とすため 前線基地(付城)の一つとして利用しました。
城跡は、一辺約四五mの主郭に外郭伴う小規模なもので、見晴らしと防御性を兼ね備えた、比高約五mの尾根の先端に築かれています。敵の攻撃から城を守るため、主郭の周囲には堀を巡らし、さらに内側には巾約五m、高さ約三mの土塁を築きました。
正面に見える小山のような盛土は、この主郭を取り巻く土塁の一部と推定されています。
土塁の上から西の方角を遠く見渡すと、かつては猪名川の流れの向こうに伊丹有岡城の姿を望むことができたでしょう。
平成二十四年(二〇一二年)三月 豊中市境域委員会

名称豊中市立原田城跡・旧羽室家住宅 史跡&土塁説明版
場所〒561-0801 大阪府豊中市曽根西町4丁目4−15
地図

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